モロッコ発、映画って初めて見た。
これがなかなかどうして。
すべての母に捧げる映画の話。
モロッコ、彼女たちの朝
データ
公開:モロッコ、フランス、ベルギー
製作国:2021年
あらすじ
仕事と住まいを失った臨月のサミアは、 大きなお腹を抱えて、 カサブランカの街をさまよっていた。 イスラーム社会では未婚の母はタブー。 新たな稼ぎ口も、寝る場所もなく、 一人、途方に暮れるサミア。 ある晩、路上で寝る彼女を見かねて 小さなパン屋を営むアブラが自宅へと招き入れる。 シングルマザーであるアブラも、 幼い娘との生活を守るため 孤独に働き続けていた。 パン作りが得意なサミアの存在は、 心を閉ざしたアブラの中に光をもたらしていく。
原題と邦題でまるで印象が違うので、
ちょっと虚をつかれました。
ちなみに原題は「アダム」
はじまりの「人間」を想起させる名前です。
どちらのタイトルも
“はじまり”という点では同じ。
さて、何がはじまるのでしょう?
実はこの映画、母の物語。
母になろうとしているもの、サミアと
すでに母であるもの、アブラの
2人の女性を主軸に描かれます。
映画のはじまりは
サミアのアップショットから入り、
しばらく、サミアの1stのみで
展開していきます。
オープニングは、
普通、世界観を分からせる、
つまり周囲の状況が分かるロングショットを
差し込むんですが、まったくそんなことしません。
ちょっと変わった導入です。
窮屈感を覚えるのですが、
この「窮屈感」がポイント。
これから待ち受ける閉塞感、
しがらみを暗示しているショットだったと思います。
しばらくして、サミアが
妊婦と分かるショットが入ります。
しかし、なぜか父親の姿はありません。
というか、劇中に登場しません。
一夜のあやまちからできてしまった子なのか?
劇中では語られませんから、
察することしかできません。
いわば、シングルマザーになろうとしている。
劇中の描写を見るに、
モロッコでは「シングルマザー」は
一種の“遊び人”として思われてしまうらしい。
不名誉なレッテルが貼られるわけ。
だから、サミアは子どもを産むことに悩みます。
産まれてしまったら、
母子ともに後ろ指をさされてしまうに違いない。と。
なので、サミアは子どもは施設に入れると豪語。
育てる気は全くないのです。
この「望まれない子」という、
男性には想像だにできない
かなり重いテーマが作品にあったりします。
あまりに重すぎると
飲み込みづらくもあるテーマ。
しかし、画面全体の明るい色使いと、
クスリと笑えるユーモアが、
その雰囲気を軽くしてくれるので見やすいです。
特に、スゴイなと思ったのは、
セリフまわしとか、
撮り方が上手いのかな。
すごく狭い場所での話なのに、
世界が広がって見えていくんです。
登場人物は4人と少なめだし、
映される場所も「パン屋」と「自宅」の
2か所と限定的。
にもかかわらず、
わけあってシングルマザーのアブラと、
サミアがお互いの経験を分け合い、
支え合うようになっていき、
終盤、本当に、世界が変わった感がします。
序盤の窮屈な印象はどこへやら。
この仕掛けを理解するには、
まだまだ映画を見慣れてないですね。
ここらで私の、最もお気に入りなシーンを。
パン作りも捨てがたいですが、
終盤の場面から!
○○○がサミアの○○を握るところ。
中盤、サミアの子どもが産まれます。
しかし、情がうつると施設へあずけるのも
ためらわれる。
そのため、
サミアは子どもとコミュニケーションを
とりません。
乳をあげるのも拒否。
ネグレクトになっちゃうんです。
これが本作で一番ハラハラするシーケンス。
我が子と向き合うことができるのか?
はたまた・・・。
ってところで、
出てくるのが「○○○がサミアの○○を握る」
たぶん、このシーン見てる自分を
客観視すると、気持ち悪い笑顔してましたね。
「赤ん坊とサミア」の一連のシーンでは、
他のどの場面よりも明らかに
セリフの量が少ないんですが、
映像でこれ以上ないほど語ってくれているので、
心にグッとくるものがありましたね。
皮膚がゾワゾワしました。
ちなみに、この産まれた赤ん坊に、
つけた名前が・・・
まあ、言わなくても分かりますね。
以上、「モロッコ、彼女たちの朝」でした。
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