映画の感想“ショーシャンクの空に”“アメリカン・フィクション”

アマプラで見た2本の映画の話でも。

まずは、こちら。

ショーシャンクの空に

ショーシャンクの空に(字幕版)

データ

公開:1995年6月(日本公開)
製作国:アメリカ
監督:フランク・ダラボン

あらすじ

銀行の副頭取だったアンディ・デュフレーンは、
妻と不倫相手を殺害した罪で終身刑になり、
ショーシャンク刑務所に投獄される。
 
身に覚えのない罪を償うことになったことで、
周囲への不信感をもち、刑務所のルールになじめず、
孤立していたアンディ。

そんな中、所内の古株で“調達係”のレッドと呼ばれる囚人と出会い、
交流を深めていく。
レッドを皮切りに刑務所内での信頼を獲得していくアンディ。
 
刑務所内の生活に希望をもったある日、
妻と不倫相手を殺害した真犯人の情報を偶然知ってしまう。

原作はスティーブン・キングの中編で、
もともとのタイトルは「刑務所のリタ・ヘイワース」というらしい。

リタ・ヘイワースというのは、
物語の時代設定である、1940年代に
人気のあった女優であり、
彼女のポスターをアンディは自分の部屋に飾っていた。
一見、ただの道楽なんだけど、
これがかなり重要な意味を持つことになる。
終盤まですっかり忘れていたもんで、
「こんな使い方するのか」と驚きました。
 
 
劇中で、終身刑は、陰険な方法で人間らしさを奪っていく残酷な刑罰。
と、語られているけれど、
そんな風に考えたこともなかった。

30から40年近く、世間と隔離された生活を送れば、
出所しても、価値観の違いから、まともな生活をできなくなっている。
トイレに行くときも、
誰かに許可を得なければ行けない獄中生活が染みついていると、
外の生活でも、ついついトイレ許可をもらってしまう。
そして、あまりの世間とのズレに苦悩していく。。。
 
まるで浦島太郎。
普通の生活を送っていたら、
考えがいたらないとこに気づかせてくれる映画でした。
 
 
で、この映画がいじわるいというか、いやらしいのは、
アンディが無実か否かを、なかなか明かさないとこ。
無実だと分かれば、アンディに安心して肩入れできるけど、
有罪だったら、どうしよう。と考える。
このモヤモヤとハラハラ感がリンクしているのが巧妙です。
 
終盤、真犯人と思しき情報を手に入れるけれど、
これも、やっかいで、はっきりアンディの事件と分からない。
よく似た別の事件かもしれない。 
そんな見せ方なんだよね。
 
この、いやらしい感じはスティーブン・キングっぽい。
 
 
最後に、一番好きなセリフをちょっと紹介。
それは、
「太平洋が青く美しいといいが。」

このセリフの一連で、「○○だといいが」ってセリフが
3、4つくらい続く。
「だといいが」って、これから訪れるかもしれない、
未来、自由への希望みたいなものが込められた、
味わい深いセリフだと思う。
 
 

では、ここから2本目の話。
もう1本見たのはコレ。

アメリカン・フィクション

アメリカン・フィクション

データ

製作国:アメリカ
監督:コード・ジェファーソン

あらすじ

黒人であるにも関わらず、
作品に「黒人らしさ」が足りないと評された小説家のモンク。
ヤケになって、みんなの想像する「黒人像」を盛り込んだ小説を、
ノンフィクション作品として、匿名で執筆する。

しかし、それが、自分の意志に反して「リアリティがある」と大絶賛!
ウソのように人気を獲得し、ベストセラーへ。
人気に比例するよう、あとに引けなくなっていくモンク。
話は大きくなり、とうとう映画化の話が立ち上がるのだった。

日本では劇場公開しなかった、アマプラ独占配信の映画。
 
出版業界や黒人作家の作品の扱われ方を
風刺的に描いたコメディ。とのこと。
 
 
想像の3倍フィクションしてた作品。
ミルフィールのように何重にも積み重ねられたフィクション。
というのか。
 
小説というフィクションの物語を作る過程を描いているわけだけど、
この「アメリカン・フィクション」という作品自体も
フィクションであるし、
だけど、この映画すらも「フィクション」という展開に繋がっていく。
・・・いかん、フィクションがゲシュタルト崩壊してきた。
 
とにかく、一見して頂ければ何言ってるのかわかると思う。
 
 
フィクションをノンフィクションとして出したもんだから、
あの手この手で、出版を回避しようとするモンクの奮闘ぶりに
腹を抱えて笑っちゃう。
例えば、絶対に出版できないタイトルにしようってことで、
「F×××」って本にタイトルつけるのだけど、
まさかの出版OK出たりとかね。
 
 
しかし、コメディでまろやかにしてるけど笑えるだけではない。
  
劇中では、麻薬と銃にまみれたステレオタイプな黒人と
「そんなバカな」なステレオタイプなコメディと。
とかく、“フィクションあるある”で構成されていくなか、
どこから真実なのか、曖昧になっていく。
 
結局、人間って信じたい物語を作っちゃう、っていう世間への皮肉なのかな。
真実がどうとかは、関係ないのだ。
ようは、信じられるかどうか。
 
とくにラストのあのシーンは、フィクションに負けた、というか諦めた、
一人の男の悲哀があった。
これがアメリカンジョークか。

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