神は黙して語らず―。
踏み絵をこんなにドラマチックに
描いた作品は今まで見たことない。という映画の話。
沈黙‐サイレンス‐
データ
公開:2017年1月(日本公開)
製作国:アメリカ
監督:マーティン・スコセッシ
あらすじ
17世紀、江戸初期。
出典:沈黙‐サイレンス‐ ソニー・ピクチャーズ公式より
幕府による激しいキリシタン弾圧下の日本。
高名な宣教師の棄教を聞き、その弟子のロドリゴらは長崎へと潜入する。
彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、
弾圧を逃れた”隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。
しかしキチジローの裏切りにより、遂にロドリゴらも囚われの身となり棄教を迫られる。
守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。
心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。
追い詰められた彼の決断とは―
極限まで追い詰められたとき、
自分の信仰心をどこまで貫けるのか?
奉行の出す試練の数々に、信仰心が徐々に傾いていく、
ロドリゴの心の機微が巧みに描かれていく。
信仰心を、日本的に言い換えれば「道徳」に近い。
倫理観を破れるかどうかを問われれば、
その重さも理解しやすくなると思う。
徹底して「人の本性は変わらず」を映し出していた。
冒頭、命がけで日本に渡ったロドリゴたちは、
極限の空腹の中、
助けてもらったトモギ村の住人たちに
食べ物を恵んでもらうのだけど、
ついつい、食事前のお祈りを忘れて、がっついちゃうんですね。
こういう人間らしい部分が随所に描かれていたと思う。
そして、キチジローの行動にも人の本性みたいなものがあり、
とにかく、自分にベクトルが向いているというか。
彼の行動は自分のためであり、
とかく、頻繁に告解(罪のゆるしを得る儀式)を求めてくる。
自己のためにやったことなのに、その責任も人任せにしてしまう。
なかなか、姑息だけども。
そんな利己的に生きられない者たちを
「弱者」としている気がした。
弱者に生きる価値はないのか?
当初、キチジローを軽蔑していたロドリゴも
自分の考えに迷いが生じていく。
迷ったとき、神にすがるのだけど、神が何かしてくれることはない。
そして、神にすがっている自分を理解してきたとき、
ロドリゴ自身も弱者であることに気づいていく・・・。
宗教の持つ意味とは何なのだろうか?
全体的に、日本の解像度が高い映画です。
富士山ドーンとか、下品な映し方はしません。
例えば、日本の風土に馴染まない、キリスト教の描き方。
わずかな信者、キリシタンでさえも、ロドリゴの思う信仰とは少し違う。
ポルトガルから来たロドリゴたちは、キリスト教のカトリックだった。
キリシタンたちがロドリゴの持つ数珠球を求めて、群がるシーンにて
物に執着するキリシタンを知って困惑する。
呪物崇拝という、カトリックの信仰に反するものじゃないかと危惧する。
日本の風土は、モノに魂を感じる独自性があったのだ。
歴史上、オランダとの貿易のみ日本は行っていくのですが、
それは、オランダがキリスト教でもプロテスタントだったことも大きいかもしれません。
プロテスタントは当時、布教を積極的に行っていなかったから
受け入れられやすかったのかも。
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