本の感想 “華氏451 新訳版”

書籍

本が禁止された未来。
蔵書疑いありとみなされれば、
家ごと燃やされる世界。

かつて消防士(ファイアマン)と呼ばれた職業は、
昇火士(ファイアマン)という、家を燃やす仕事になっていた。

昇火士として働く主人公は、
好奇心に負けて1冊の本を持ち帰ってしまう。。。

という、ディストピアのお話。

華氏451 新訳版

華氏451度〔新訳版〕
著者:レイ・ブラッドベリ 訳:伊藤典夫

華氏451度――この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。
451と刻印されたヘルメットをかぶり、
昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。
モンターグも自らの仕事に誇りを持つ。
そうした昇火士(ファイアマン)のひとりだった。
だがある晩、風変りな少女とであってから、
彼の人生は劇的に変わってゆく・・・・・・
本が忌むべき禁制品となった未来を舞台に、SF界きっての
抒情詩人が現代文明を鋭く風刺した普及の名作。
新訳で登場!

出典:『華氏451 新訳版』背表紙より

本が禁止されただけで、
なぜ、ディストピア化するかというと、
本を読むと
「社会に疑問を持ってしまうから」
 
そう、この世界は、
誰もが言われたことをやるだけでよく、
そのおかげで、誰しも悩みをもつことはない。
 
主人公・モンターグも、淡々と仕事をしているだけだった。
そして、彼の妻は、壁をモニター化し、
そこに、空想の家族を映し出し、
日々、家族ごっこを演じて過ごしていた。
(・・・まあ、空想の家族かどうかは、それぞれ解釈あると思うけど、
やり取りの「台本」があるので、個人的にはそう思った。)
 
この無感動にモニターばかり見てる妻って、
何となく動画を見て時間を消費している現代人と通じるところは
少なからずあると思う。
 
読んでて思ったのは、
1953年出版の『華氏451』が描く未来って
今の時代を指しているんじゃないかと。
 
ここで、本文のセリフを引用させてもらう。

「古典は15分のラジオプロに縮められ、
つぎにはカットされて二分間の紹介コラムにおさまり、
最後は十行かそこらの概要となって辞書にのる。」

「大衆の心をつかめばつかむほど、中身は単純化された」

出典:『華氏451 新訳版』P92より

今、現在のメディアの在り方、そのものを指している。
そんな気がしてならない。
 
 
映画の文化だって、今やファスト映画。
早送り等やまとめサイトで、とにかく時間短縮で「情報」を知れればいい。
もはや、娯楽というより、情報を摂取するものになっている。
それを加味してか、大作映画は、
もっと単純化していっている傾向にある。
 
映画よりも単純化されたテレビ番組という文化は、
さらに単純化された動画コンテンツに変ろうとしている。
 
 
単純化された先に待つのは何か。
それは、同一化していくことなんじゃないかと最近思う。
 
中身が同じ動画はやたら増えたし。
きっと、このまま単純化していくと、
みんな、同じ考えの悩みも何もない世界になるのではないか。
ある意味で、幸せな世界かもしれない。
 
 
しかし、『華氏451』のモンターグは、
本を手にしたことで、疑問をもってしまう。
「このままの世界でいいのか」と。
 
『華氏451』が面白いのは、
独裁者がそうした政策をしいたというより、
民衆自ら、求めた方向に行き着いた結果として、
ディストピアになっているところかと。
 
絶対悪がいないゆえに、恐ろしい。

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