バチェラーの男女逆転版。みたいな設定から、
一種のサスペンスな物語が進行するのかとも思っていたけれど、
序盤から、そんな幻想を打ちのめされました・・・。
DTOPIA(デートピア)
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DTOPIA 著者:安堂 ホセ |
あらすじ
恋愛リアリティショー「DTOPIA」新シリーズの舞台はボラ・ボラ島。
ミスユニバースを巡ってMr.LA、Mr.ロンドン等十人の男たちが争う──
時代を象徴する圧倒的傑作、誕生!出典:河出書房新社ホームページより
まずは、本編にあるキレッキレの2024年の映画評を読んでほしい。
だって2024年の娯楽のトレンドは、白人による白人のための懺悔ショーだから。
(中略)
バービー人形という白人ルッキズムと資本主義の合成物。
原爆。男女差別。黒人と白人の格差。
ネイティブアメリカン虐殺。
もう誰の責任か追及できないぐらい昔の、
すでに起きてしまった過ちを、白人の俳優たちが
「私たちは自分の愚かさをちゃんと分かってます」って顔で
演じてみせる映画を、ハリウッドは強迫観念のような勢いで量産した。出典:P21、22より
そして、このあとにデートピアという番組もこの一つだと語られるわけです。
過去の悲劇に比べたら、現代の我々はマシである。
そういう言い訳をするための娯楽になっているというか。
このあたりで、
「たぶん、この小説ただものじゃない。」と思いました。
デートピアの説明で、
カメラはリアルタイム配信を行っており、
視聴者はお気に入りの出演者のみを追いかけて視聴することができる。
そういう試みがされた番組。とある。
つまり、パーソナライズされた楽しみ方ができるんです。
個々人の有用なものだけを取り出すという行為。
一見、すごくとってもいいことのように思えます。
しかし、個々人によりそった多種多様感を出しておきながら、
作中人物たちは、「Mr.LA」とか「Mr東京」とか、
あるいは「おまえ」とか。
かたくなに名前で呼ばないんですよ。相手のことを。
名前がないということは、何者でもない。そんな隠喩に見えて。
デートピアを最後まで読んで、冒頭の映画評を読み返してみると、
最近のエンタメにおけるポリコレのほとんどは、
懺悔にみせかけた「何か」なのかもしれないなとも、
うがった考えをしてしまう。
本書の中で、ひとつのキーワードがあるんですけど、
それが「暴力」
繰り返し、繰り返し「暴力」というワードが出てきます。
「暴力とは何か。」「暴力から「暴」を取りたい」んだって。
作中人物たちは語る。
真剣になんだろう?って思った。
おそらく、「何者でもない」とすること。
それが暴力なのか。
人を地域性とか、そういうレッテルで仕分けして、
人間性を省略して人を見てる。
「有用なもの」だけを取り出して
手軽に「レッテル」で人を理解する行為。
それが「暴力」なのだろうか。。。
・・・とまあ、個人的な感想です。
いろいろ考察がはかどる小説でした。
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